1.「第一論文:禁断の史実」[論旨概要]
私は、20代の頃から現代美術家のマルセル・デュシャンに深い興味を覚えるようになったのだが、その言動には疑問が残り続けていた。ピエール・カバンヌ氏によるインタビューの中で、晩年のマルセル・デュシャンは、「人間のすべての創造物には価値がない。」と発言していたのである。「人間の美術家」であるはずのマルセル・デュシャンが、そのように言う矛盾が、どうにも理解しがたく、それは30年来の悩みの種となる謎だった。
そして、2012年11月から故あって、ピエール・カバンヌ著『デュシャンとの対話』とカルビン・トムキンス著『デュシャン・バイオグラフィー』の二つの資料の内容の精査を、あらためて徹底する論考を開始したのだが、その時から私のPCは情報機関によってモニタリングされるようになった。最初は、CIAによってモニタリングされるようになったと思われる。
それが確信された時には驚いていたが、どうしてそんなことになったのか考えた。マルセル・デュシャンは、第一次大戦の頃からアメリカの情報部によって要注意人物としてリストアップされていたという。私は、マルセル・デュシャンに関する独自の論考を続け、美術雑誌に小論を寄稿したりしていたので、私も知らぬ間にCIAにマークされていたのではないかと思われた。またその情報が漏れたことによって、以後10年近く常軌を逸した組織犯罪に見舞われることになった
資料を精査して、私は晩年のマルセル・デュシャンを「此岸に非ざる人外の意識」と結論づけることになったのである。「人間のすべての創造物には価値がない。」という発言に賛同できる人間はいるだろうか。人間が作る諸々の事物に、何らかの意味や価値があるとみなすことによって、この人間社会は成り立っているはずなのである。それを全否定してはばからない者は、「人間の姿をした人間のアンチテーゼ」と判断せざるを得ないだろう。多くの人は信じ難いと思うかも知れないし、また今日でも科学的には証明されているとは言えないが、宗教においては、古来からキリスト教、イスラム教によって共通して「サタン」と呼ばれて警告されてきたものに相当すると考えられる。とりわけ『ヨハネの黙示録』では、「この太古の蛇、悪魔とかサタンと呼ばれる者、全世界を惑わす者」と言われて警告されてきたものに相当すると考えられる。「人間マルセル・デュシャン」の言動ではないものが、そう誤認されることによって、全世界は惑わされることになるのではないだろうか。仏教的な表現で言えば、「第六天魔王」と呼ばれるかも知れないし、他の呼び方もあるかも知れないが、ここでは「サタン」と呼ぶのがわかり易いと思われる。
しかも、それは自然発生的に起こったことではなく、人為的になされたものだと考えられた。私が、それをPCで書いたおそらく2012年11月6日に、当時のアメリカのオバマ政権で国務長官だったヒラリー・クリントン氏が卒倒し、一週間自宅勤務になると報道されていた。それまでも、テレビなどを見て私のPCがモニタリングされているのではないか、と思われるようになっていたのだが、そのことでそれが確信された。
マルセル・デュシャンは、1912年にパリからミュンヘンへ数ヶ月の旅行へ行ったのだが、そのミュンヘン旅行の後に言動や作品が変化していったという。25歳のマルセルにとっては、初めてのフランス国外への旅行だったが、それに一人で行き、ミュンヘンに数ヶ月滞在したが、マルセル・デュシャンは生涯その旅行の目的を明かさなかったという。マルセル・デュシャンは、パリで自作の『アフリカの印象』の舞台上演を行なっていた小説家のレーモン・ルーセルと接触し、そのレーモン・ルーセルに「ミュンヘンへ行け。」と言われて、ミュンヘンへ行ったと考えられる。マルセルは、ピカビアとピカビア夫人のガブリエル・ビュッフェとともに、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の舞台を観に行き、その一週間後に、マルセルはミュンヘンへ出発していたのである。奇妙な小説を書いていたレーモン・ルーセルは、極めつけの奇人とも言われるが、10代の頃から母親の意向によって、著名な精神科医のピエール・ジャネ博士の精神診断を受けていた。ジャネ博士は、レーモン・ルーセルを「哀れな病人」としか見なさず、「すでにエクストラ・ヒューマンの世界の思念」と診断していたのである。
レーモン・ルーセルに言われてミュンヘンに来たと考えられるマルセル・デュシャンは、トムキンス氏のリサーチによると、ミュンヘン駅に着いた10日後にミュンヘンのシュバビング地区に来て、そこの家具付きのアパートに約2ヶ月滞在し、その後にパリに帰ったとされる。つまりトムキンス氏のリサーチによっても、ミュンヘン駅に着いてからの10日間は、消息不明なのだが、その10日間にミュンヘンの郊外などに連れて行かれて、降霊術を受け、その後の2ヶ月間シュバビング地区に滞在したのは、術後の経過観察のためだったのではないかと考えられる。
マルセル・デュシャンが、ミュンヘン行きを決心した動機には、二つの失意が要因になっていた。一つは、ジャンヌ・セールとの失恋だった。ジャンヌ・セールは既婚者だったが、夫と別居してマルセルの近くに住んでいた。ジャンヌ・セールは、マルセルの絵のモデルをするようになって、二人は恋仲になり、1911年にはマルセルとの間の子供も出産していたという。しかし、ジャンヌ・セールはマルセルとは結婚せず、マルセルとの間の子供を連れて、夫のもとに帰って行ってしまったのである。それがマルセルにとっての失恋だった。マルセルは、1911年から1912年にかけて、『汽車の中の悲しめる青年』というタイトルで自画像をキュビスム風の手法で描いた絵を制作しているが、その絵はマルセルの失恋を物語っていたのだろう。
もう一つの失意は、1912年のパリのアンデパンダン展の際に、彼の新作絵画の『階段を降りる裸体No.2』が、ピュトー・グループの芸術家仲間から拒絶された一件だった。
この1912年2月に、パリではイタリアの未来派が展覧会を開き、急進的、排他的な未来派は、パリでのキュビスムの芸術運動をしきりに攻撃していた。パリでキュビスムの芸術運動を進めていたピュトー・グループの若い芸術家たちは、そのイタリア未来派の動向に神経過敏になっていた。そうしたなかピュトー・グループは、アンデパンダン展の一つの展示室にキュビスムの作品を集めて展示することを計画していた。マルセルも二人の兄とともに、このピュトー・グループに加わっていて、新作の『階段を降りる裸体No.2』を出品しようとしていたのだが、この作品が他のピュトー・グループのメンバーたちから問題視されることになった。マルセルの作品が、機械文明がもたらす運動や速度を新しい美の規範のように考える未来派におもねる作品のように思われたのである。またマルセルは、未来派の展覧会のオープニングにも出席していたという。ピュトー・グループのメンバーたちはそれも知っていたのかも知れない。
ピュトー・グループのメンバーたちは、マルセルにその作品の出品を取りやめるか、あるいは少なくとも作品のタイトルを変更するように要求しようとした。しかもマルセルの年の離れた二人の兄、画家のジャック・ヴィヨン(本名ガストン・デュシャン)、彫刻家のレーモン・デュシャン=ヴィヨン(本名レーモン・デュシャン)が、ピュトー・グループの使者としてマルセルのところにそれを通告しに来たのだった。二人の兄までが、マルセルを擁護せずに、グループの意向に従ってマルセルに圧力をかけに来たことが、マルセルの傷心を深めさせることになった。その理不尽な圧力に対して、マルセルは黙って、すでに展覧会場の壁にかけられていた自分の絵を持ち帰り、その後ピュトー・グループの芸術家たちと絶縁した。
フランシス・ピカビアも、ピュトー・グループに参加していたのだが、ピカビアはあまりグループで行動することを好まず、グループの中では少し外れた存在だった。またピカビアは、マルセルに圧力をかけることにも賛同しておらず、マルセルに同情的だったので、マルセルはその後もピカビアとだけは親しくしていた。
この「1912年のアンデパンダン展の一件」について、晩年のマルセル・デュシャンは、『デュシャンとの対話』の中でこのように言っていた。(PCはピエール・カバンヌ、MDはマルセル・デュシャン)
PC: 詳細にいく前に、私たちはあなたの人生でキイとなるイベントに取り組むことができます、いわばそれは、事実、約25年間の絵画制作のあとで、あなたは突然それを放棄した事実です。私は、あなたにこの決裂を説明してほしいと思います。
MD:それはいくつかの事からきました。まず、アーティストたちとの日々の摩擦があり、事実、人(On)はアーティストたちと一緒に暮らし、人(On)はアーティストたちと会話をし、私をとても不快にさせました。1912年に、もしこう言ってよければ、少し「血を逆流させた」事件があり、私が「階段を降りる裸体」をアンデパンダン展に持って行ったとき、そして、それをオープニングの前に取り下げるように私は頼まれたのです。その当時の最も先進的なグループの中での人々は非常なためらいを覚え、恐れのようなものを示したのです。グレーズのような人々、彼らはきわめて知的であるにもかかわらず、「ヌード」が、彼らが描いていたようなラインにはないことに気づきました。キュビスムは、2年か3年続いていました、そして、彼らには、何が起こるかを予見するような、まったく明確で、まっすぐな行為のラインがあり、私はそれが愚かな素朴さだと思いました。そして、私はとても冷めて、私が自由だと信じていたアーティストたちのそのような振舞いに対するリアクションとして私は職につき、サント=ジュヌヴィエーヴ図書館の司書になったのです。
(Pierre Cabanne, Entretiens avec Marcel Duchamp,éd. Pierre Belfond, p.21より筆者訳)
ここで「on(人)」という主語で言われているのは「マルセル」のことであり、それによって「私をとても不快にさせました。」と言われていた「私」とは、サタンのことであると考えられる。
また、ここでの「血を逆流させた」という表現が注意を惹くのだが、日本語訳書でも同様に書かれている。仏語原文では、”tourné les sangs”と書かれ、英語に直訳すると”turned bloods”となり、やはり「血を逆流させた」という意味に解釈される。晩年のマルセル・デュシャンは、「血が逆流しそうになった」ではなく、「血を逆流させた」と断言して言っていたのである。まさにその後のマルセル・デュシャンは、血が逆流してしまっていたのだろう。英語訳書では、この部分では血(blood)という表現は使われず、“gave me turn”と書かれ、「私を翻らせた」という意味に解釈される。
そして、こうした「ジャンヌ・セールとの失恋」、「1912年のアンデパンダン展の一件」があった後、マルセルはピカビアと、ピカビア夫人のガブリエル・ビュッフェとともにレーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の舞台を観劇に行ったのである。
レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の舞台は、1912年5月11日から6月10日までの1ヶ月上演された。マルセルとピカビアらは、そのいずれかの日にそれを観劇していた。「チターをひくみみずや、自分の脛骨を風笛がわりに吹く男や、一つの口で同時に四つの歌を歌う歌手」などなどの奇妙なイメージが披露された『アフリカの印象』を、後年レーモン・ルーセルは、それらが単なる言葉遊びから作られたイメージであったことを明かしている。そのレーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の舞台上演は、賛否両論に激しく分かれる結果になっていた。レーモン・ルーセルを気狂い扱いする聴衆がいる一方で、その奇妙で現実離れしたイメージを面白がって称賛する聴衆に二分されていた。おそらくピカビアやマルセルは、感銘を受けた側だったのではないだろうか。好奇心旺盛なピカビアは、レーモン・ルーセルの特異なイメージに関心を抱き、マルセルを連れて強引にレーモン・ルーセルのところに押しかけて行ったのかも知れない。
『デュシャンとの対話』では、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の観劇に関して、このように言われていた。
PC:1911年、あなたがピカビアを知った年に、あなたは彼とともに、アントワーヌ劇場で、アポリネールと彼(ピカビア)の妻のガブリエル・ビュッフェと、レーモン・ルーセルによる「アフリカの印象」を観劇しました。
MD:それは素晴らしかった。モデルとわずかに動く蛇がいる場面がありました──それはまったく異様な狂気でした。私はテキスト(あらすじ)のことをあまり覚えていません。人(On)は、あまり聞いていませんでした。それは私にヒットしました……
(Pierre Cabanne, Entretiens avec Marcel Duchamp,éd. Pierre Belfond, p.61より筆者訳)
ここでは1911年と書かれていたのだが、これは1912年の間違いである。レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』は、最初は1911年にフェミナ座で上演されたが、すぐに打ち切りになり、1912年にキャストを変えてアントワーヌ座で再演されていた。マルセルらが観たのは、その1912年のアントワーヌ座での再演だったのである。
また、ここではアポリネールも同行したように書かれているのだが、おそらくこれは事実ではなく、アポリネールは同行していなかったと思われる。日本語訳書には、アポリネールの名前は書かれていなかったのである。『デュシャン・バイオグラフィー』でも、この観劇にはアポリネールも同行していたと言われるが、マルセル・デュシャンは、他の三度のインタビューで、アポリネールとは、この1912年の10月に初めて会ったと答えていて、辻褄が合わないと指摘されていた。この1912年10月に、マルセル、ピカビア、アポリネールはガブリエル・ビュッフェの母の実家のある小村エティヴァルにバカンス旅行に行ったとされるが、その時は確かにアポリネールも同行していて、その前後がマルセルにとって、アポリネールとの初対面だったのではないだろうか。日本語訳書はこの『デュシャンとの対話』の仏語原書の初版をもとに翻訳されたと明記されており、おそらくその後に重版された仏語原書方が改竄されて、アポリネールの名が加えられていたことが疑われる。
1911年も、またアポリネールが同行したというのも事実ではなく、マルセルがピカビアとピカビア夫人のガブリエル・ビュッフェとともに、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の舞台を観劇に行ったことが、その後にマルセルがミュンヘンへ行って変貌するキイとなる一件だったから、それを誤魔化そうとする改竄がされたと推測される。
ここでマルセル・デュシャンは、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の舞台を、「それはまったく異様な狂気でした。」と言い、だから「それは私にヒットしました……」と言っていた。また「人(On)は、あまり聞いていませんでした。」と言われていたが、それは「マルセルの自意識」のことを言っていたのではないだろうか。
またレーモン・ルーセルとの関係について、このような質疑が書かれていた。
PC:多分、ルーセルの言語の挑戦が、あなたが絵画ではじめていたことに一致していた?
MD:もしも、あなたがそう望むならば! 私はただそれを尋ねるだけです!
PC:私はそれを望まないし、気にしていません!
MD:もしも私がそれを維持するとしたら。決めるのは私ではありませんが、しかし、それはとても素晴らしいことでしょう、なぜならこの男は、ランボーの革命的な側面、分裂(scission)を持っていたからなのです。象徴主義やマラルメでさえ問題ではなく、ルーセルはすべてのこの補足(complèment)を分かってはいませんでした。そしてこの驚くべきキャラクターは、彼のキャラバン(家馬車)の中で、カーテンを下ろして、彼自身に閉じ込もって暮らしていたのです。
PC:あなたは知り合いでしたか?
MD:私は、彼がチェスのプレイをしていたレジェンスで、一度彼を見かけたことがあります、もっとずっと後のことです。
(Pierre Cabanne, Entretiens avec Marcel Duchamp,éd. Pierre Belfond, p.56より筆者訳)
このマルセル・デュシャンの返答は、いささか矛盾しているように思われる。レーモン・ルーセルとは、もっとずっと後にレジェンスでのチェスの大会の際に、チェスを指しているレーモン・ルーセルを一度見かけたことがあるだけだと言われているのに、「この驚くべきキャラクターは、彼のキャラバン(家馬車)の中で、カーテンを下ろして、彼自身に閉じ込もって暮らしていたのです。」と、レーモン・ルーセルの私生活をよく知っているかのように言われていたのである。やはり、レーモン・ルーセルとの関係を隠そうとしていたように思われる。
ジャネ博士が、「すでにエクストラ・ヒューマンの世界の思念」と診断していたレーモン・ルーセルは、極力人に会わないようにして、自宅や家馬車に引きこもって暮らしていたという。小説を出版しても、出版社の編集者とは一度も会ったことがなく、常に代理人が折衝していたという。レーモン・ルーセルは、あまり人に会うわけにはいかない存在だったのではないかと思われる。しかし、ピカビアとマルセルは、その家馬車の中で、カーテンを下ろして、引きこもって自分を見せないようにしていたレーモン・ルーセルのところに押しかけて行ってしまったのではないかと思われるのである。
またここで、「なぜならこの男(ルーセル)は、ランボーの革命的な側面、分裂(scission)を持っていたからなのです。」と言われていたのは、レーモン・ルーセルも二つの意識を持っていた存在であることを意味し、また「補足(complèment)」と言われていたのは、サタンによる「補足」という意味だったのかも知れない。
『デュシャン・バイオグラフィー』では、トムキンス氏の取材に対して、この「ミュンヘン行き」に関して、マルセル・デュシャンはこのように言っていた。
「もしも私がミュンヘンに行っていたとしたら、それは私が、パリで『カウ・ペインター』(cow painter)に会ったからです、私が意味しているのは、牛を描いたドイツ人のことです、とても最高の牛を、勿論、ロヴィス・コリントやそれらのすべての人々の崇拝者で、そしてそのとき、この『カウ・ペインター』(cow-painter)が「ミュンヘンへ行け」と言いました、私は起き上がり、そこに行き、小さな家具つきの部屋で数ヶ月暮らしました……その頃は、ミュンヘンには多くのスタイルがありました。私は、けっして魂とは話しませんでしたが、しかし私は偉大な時間を持ちました。」
(Duchamp a Biography, Calvin Tomkins,Henry Holts and Company,Inc. p95より筆者訳)
晩年のマルセル・デュシャンは、パリで「カウ・ペインター」に会い、その「カウ・ペインター」から、「ミュンヘンへ行け」と言われたので、ミュンヘンへ行ったと、トムキンス氏の取材に対して答えていたのである。この「カウ・ペインター(cow-painter)」は、牛の絵を描いていた「牛の画家」のように言われていた。日本語訳書(木下哲夫訳)でも、「牛の絵描き」と訳されていた。しかし、この”cow-painter(カウ・ペインター)”は妙な表現だし、個人名が言われず、誰のことかわからない「カウ・ペインター」から、「ミュンヘンに行け」と言われたから、すぐにミュンヘンへ行ったというのも、いい加減で不審な話である。やはり、何かを誤魔化すために、こういう言われ方がされていたのだろう。
英語の”cow”は、名詞として捉えれば、「雌牛」や「乳牛」という意味に解釈されるが、他動詞として捉えると「(脅迫・暴力などで)おびえさせる」、「脅す」という意味がある。つまり、この”cow-painter”とは、「画家を脅かせ」という意味だったのではないだろうか。「画家を脅かせ! そのためにミュンヘンへ行け」と誰かに言われて、マルセルはミュンヘンに行ったことを意味していたのではないだろうか。だとすると、それを言ったのは、やはりレーモン・ルーセルだったのだろう。
人には会わないように家馬車の中で引きこもっていたレーモン・ルーセルのところに、ピカビアとマルセルが押しかけて行き、ついにレーモン・ルーセルの口を開かせてしまったのではないかと思われるのである。そして、マルセルのことを聞いたレーモン・ルーセルは、「画家を脅かせ、そのためにミュンヘンへ行け」と言い、その一週間後にマルセルはミュンヘンへ行っていたのではないだろうか。その「カウ・ペインター」の説明も、一種のワードゲームだったのかも知れない。その後のレーモン・ルーセルとマルセル・デュシャンには、言葉遊びとチェスマニアという共通点があった。
またここでの記述の最後の部分は、英語原文では”I never spoke to a soul, but I had a great time.”と書かれている。日本語訳書では、その部分は「だれとも一言も話はしなかったけれども、おおいに愉快に過ごしたよ。」と訳されている。そう意訳することもできるのだろうが、”I never spoke to a soul”を直訳すれば、「私はけっして魂(ソウル)とは話さなかった」という意味になる。それは「魂を持たないもの」とだけ対話し、「偉大な時間(a great time)」を持ったと言われていたのではないだろうか。
トムキンス氏の著書によれば、マルセル・デュシャンは、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』を観劇した一週間後にミュンヘン行きの列車に乗ったとされている。そして、途中スイスのバーゼルとコンスタンスで一泊して、6月21日の夜にミュンヘン駅に到着したとされる。そして、その10日後にシュバビング地区の家具つきのアパートに来て、そこに約2ヶ月滞在したとされるのだが、ミュンヘン駅に着いてからの10日間は、どこで何をしていたのか消息不明なのである。この間にミュンヘンの郊外などに連れて行かれ、降霊術のような秘術を受けたと推測されるのである。その後の2ヶ月のシュバビング地区での滞在は、術後の経過観察のためだったのではないかと思われる。
ミュンヘンの滞在中にマルセルは、ピカビア夫人のガブリエル・ビュッフェに二人だけで会いたいと手紙を送り、ガブリエル・ビュッフェは、アンドロの駅で列車を乗り継ぐ間なら会うことができると返事を送り返し、二人は一度だけアンドロの駅で落ち合って数時間話したという。ガブリエル・ビュッフェは、その時のことを回想録で、このように書いていた。
「私は、この手紙でびっくりさせられたことを覚えています。」ガブリエルは言いました。「こうした秘密の事は、大変に私を悩ませました、しかし同時に、彼のフレンドリーな態度に、私はとても心を動かされました。彼は、二人だけで私にどうしても会いたいと言っていました。」と書いていた。
マルセルは、ガブリエル・ビュッフェにはミュンヘン旅行の目的の秘密を打ち明けていたのではないだろうか。そして、アンドロの駅でマルセルと会ったことについて、ガブリエル・ビュッフェは、このように書いていた。
「私たちは、駅のなかで木製のベンチに残りました。私たちは、夜を過ごし、そして私が彼より先に去りました。今でも、私はそれが、本当に驚くべきことで、とても哀れで、そしてあまりにも若かったと思います。私とともに夜の数時間を過ごすために、ミュンヘンからジュラヘ旅行してきて、それは一種の狂気で、白痴でした。」
(Duchamp a Biography, Calvin Tomkins,Henry Holts and Company,Inc. p111より筆者訳)
ガブリエル・ビュッフェは、マルセルが自分を変えるためにミュンヘンへ行ったことを知って、あまりに哀れな若気の至りで、数時間自分と話すためにアンドロまで来たマルセルのことを、狂気じみた白痴だったと書いていたのではないだろうか。そして、マルセルはそれをガブリエル・ビュッフェに打ち明けて、自分の現状を見せようとしたのではないだろうか。
そして、ガブリエル・ビュッフェは、このように書いていた。
「触れもせずに、あなたをとても欲していると、あなたが感じているような存在(being)の隣に座ることは、まったく非人道的なことだった。……何より、彼は物事を驚くような方法で、絶対的に理解するのだから、私は彼に話すことすべてに気をつけなければならないと思った。」
(Duchamp a Biography, Calvin Tomkins,Henry Holts and Company,Inc. p111より筆者訳)
つまり、マルセルの内部でサタンがマルセルの実在をとても強く欲していると、マルセルが感じているような存在の隣に座ることは、まったく非人道的なことだったと書き、「何より、彼(being)は驚くような方法で、絶対的に理解するのだから、私は彼(being)に話すことすべてに気をつけなければならないと思った。」と、ガブリエル・ビュッフェは書いていたのだろう。
またガブリエル・ビュッフェは、このように書いていた。
「『汽車の中の悲しい青年』が、魅惑的で印象的なルシファーの化身(インカーネーション)に変容していた。」
(Duchamp a Biography, Calvin Tomkins,Henry Holts and Company,Inc. p112より筆者訳)
『汽車の中の悲しい青年』とは、既述したようにマルセルが最近描いた絵画作品のタイトルだが、マルセルの比喩として言われていたのだろう。ミュンヘンに滞在中だったマルセルと会ったガブリエル・ビュッフェは「感傷的だったマルセルが、魅惑的で印象的なルシファーの化身に変容していた。」と書いていたのである。この時、マルセルは、ガブリエル・ビュッフェにだけ自分の現状を見せようとしただろう。ある意味では、マルセルは救いを求めようとしていたのかも知れない。しかし、ガブリエル・ビュッフェにも、もはやどうすることもできなったのではないだろうか。自分を変えようとしたその行為は、自己を失う行為だったのではないだろうか。
そして、マルセルはミュンヘンのシュバビング地区のアパートで「花嫁」の油絵を描いている時に、激しい激痛に襲われ、「事実上の知覚麻痺の状態」に陥ったという。後年マルセル・デュシャンは、その時のことを「完全な解放の契機」と呼んでいた。それはサタンにとっての「完全な解放の契機」を意味していたのではないだろうか。この「花嫁」の絵が、マルセル・デュシャンの最後の油絵(タブロー)になったとも言われる。 マルセルが求めたのは、ジャンヌ・セールの代わりになる「花嫁」だったのかも知れない。
そして、マルセル・デュシャンは、その後の代表作とも言われる通称「ラージグラス(大ガラス)」の構想がまとまったので、ミュンヘンからパリへ戻ったとされる。それは、術後のサタンとの契約が成立したことを意味していたのだろう。
通称「ラージグラス」、正式名称「彼女の独身者たちによって、裸にされた花嫁さえも」、その意味するところは、「9つのマリック・モールズ」に喩えられたピュトー・グループの九人の芸術家たちと、二人の兄によってもたらされた疎外感が、ジャンヌ・セールの代わりの「花嫁」になったサタンを露わにして、出現させたという意味だったのだろう。またここで言われた「独身者」とは、単独者、つまりサタンとは結合していない正常な人間個人を意味していたと思われる。この「彼女の独身者たちによって、裸にされた花嫁さえも」は、マルセルとサタンとの婚姻契約が成立した記念碑だったのではないだろうか。 そして、その後にその「花嫁」は、「ローズ・セラヴィ」と名乗るようになっていたのだろう。
そして、ミュンヘンからパリへ帰る際に、ピカビアが車で迎えに来ていて、マルセルはジュラからパリまでピカビアの車に同乗して帰ったという。ピカビアは、マルセルがレーモン・ルーセルから「ミュンヘンへ行け」と言われた現場を目撃していたのではないだろうか。パリに戻ってから、マルセルはすぐにジュラからパリまでの車中での幻覚体験のメモを書きとめ、それは「ジュラ-パリ・ロードのノート」と呼ばれるという。その中には、このようなことが書かれていたとされる。
「ヘッドライト・チャイルド、それは『ジュラからパリへの道』を支配し、征服していく『ニッケルとプラチナでできた純粋な子』」、「彗星、それは前方に尾を持っている、ヘッドライト・チャイルドの付属物であるこの尾……それは、この『ジュラからパリへの道』を(金の塵、図像的に)粉砕し吸収する。」
「人間にとっては果てしないもの」、「五つの裸体のチーフにおける片端と、ヘッドライト・チャイルドにおける他方での終着点。」
(Duchamp a Biography, Calvin Tomkins,Henry Holts and Company,Inc. p113より抜粋、筆者訳)
このジュラからパリへの車中では、ピカビアとマルセルと運転手以外にもう二人同乗者がいて、計五人が同乗していたという。「五つの裸体のチーフ」とは、マルセルも含めた自らの肉体(裸体)を持った五人の人間の精神(霊)を意味し、「ヘッドライト・チャイルド」とはサタンの比喩だったのだろう。現れ出したサタンが「ヘッドライト・チャイルド」と形容され、ジュラ・パリロードの道程を破壊して、支配していくと言われたのだろう。そして、「人間にとっては果てしない」ドライブの終着点として、対峙する「五人の人間の精神(霊)」と、サタン(ヘッドライト・チャイルド)が到着したと言われていたのではないだろうか。
また『デュシャンとの対話』の仏語原書を読むと、カバンヌ氏から質問されたマルセル・デュシャンは、「on」という主語で話している場合が多い。この「on」は、フランス語の日常会話では多用される主語だと言うが、一人称複数形の「わたしたち」という意味で用いられる場合と、不定代名詞として漠然と「人(一般)」や「不特定の誰か」という意味で用いられる場合があるという。「on」は、かなり曖昧な主語だと言えるのだが、それが「わたしたち」という意味で用いられていたのだとしたら、「サタンとマルセル」を「わたしたち」と呼んでいたと考えられ、また「不特定の誰か」という意味で用いられていたとしたら、「マルセル」のことを「on(人)」と呼んで、「人(マルセル)は、こうだったんだ」といくらか他人事のように言われていたと考えられる。それらが混ざったようなニュアンスで使われていた主語だと考えられる。
またカバンヌ氏の質問に対して、マルセル・デュシャンが自分のことについて答え、最初は明確に一人称単数形の「わたし(je、英語のIに相当)」という主語で話し始めている場合もあるが、途中で主語が「on」や、二人称の「あなた(vous、英語のYouに相当)」に変わり、また最後には「わたし(je)」に戻っている部分もある。そうした異常な「人称のブレ」が指摘される部分が、何箇所も散見されるのである。
例を挙げると、『デュシャンとの対話』には、このように書かれていた。
PC:では、あなたのはじまりを要約すると:ブルジョアの家庭で、とても賢明で、とても因習的な芸術教育でした。あなたが後にとった反芸術的な態度は、一方で、この事態に対する反動ではなかったのですか?
MD:はい、しかし、私は特に早い時期に、私に関しての確信はありませんでした…人(on)が子供のときには、人(on)は哲学的な考えをしません、人(on)はこのようには言わないのです、「それは私のせいなのですか? 私が間違っているということですか?」 人(on)は、人(on)がすべきことの妥当性についてあまり考えずに、ただ他よりあなたをもっと楽しませる経路に従います。人(on)が正しいか間違っているか、そして人(on)が変化できるかどうかを疑問に思うのは、もっと後なのです。1906年から1910年または1911年の間、私は異なるアイデアの間で漂いしました、野獣派、キュビズム、もう少し伝統的なものに時々戻りました。私にとって、重要であった出来事は、1906年または1907年に、マティスを発見したことでした。
(Pierre Cabanne, Entretiens avec Marcel Duchamp,éd. Pierre Belfondより筆者訳、p.30)
この部分では、最初は「私(je)」という主語で話し始められているが、すぐに主語が「on」に変わり、最後はまた「私(je)」に戻っていた。また英語訳書では、この仏語原書で「on」と書かれていた主語は、「you」になって英訳されていた。
また『デュシャンとの対話』には、このようにも書かれていた。
PC:あなたは、アポリネールを知っていましたか?
MD:とてもひどく。人(On)は、また彼をよく知りませんでした、とても親しい人々でなければ。彼は蝶(un papillon)でした。彼はあなた(vous)に残っています、彼はキュビスムを話し、それから翌日には、サロンの中でヴィクトル・ユゴーを読んでいました。その時代の文学者でおもしろかった事は、あなた(vous)が、二人の著述家に出会ったとき、あなた(vous)は言葉を得ることができませんでした。それは、花火、ジョーク、嘘、すべて乗り越えられないものの結果でした、なぜなら、それはあなた(vous)がその言語を話すことができないようなスタイルだったからです、それであなた(vous)は静かにしていました。ある日、私はピカビアと一緒に、マックス・ジャコブとアポリネールとのランチに行き、それは、驚くべき事でした、人(on)は、苦悩と笑いのようなものの間で分断されていました。どちらも、まだ1880年代の象徴主義の文学者の文脈に生きていたのです。
(Pierre Cabanne, Entretiens avec Marcel Duchamp,éd. Pierre Belfondより筆者訳、p.35)
ここでは、カバンヌ氏の質問に対して、最初は「on」という主語で、「人(あるいは私たち)は、また彼をよく知りませんでした」と話し始めているのだが、すぐに主語が「あなた(vous)」に変わり、サタンがマルセルのことを「あなた」と呼んで言っていたと解釈される。「あなた(マルセル)は、二人の著述家と出会った時に、あなた(マルセル)は言葉を得ることができなかった。」と言われていたのだろう。マルセル・デュシャンは、ほとんど一冊もちゃんと本を読んだことがなかったと言われるのである。
また別の例では『デュシャンとの対話』には、このように書かれていた。
PC:あなたは、ニューヨークではどのように暮らしているのですか?
MD:わかりますか、人(on)は、人(on)がそれをどうしているかわからないのです。私(Je)は、「毎月そんなに多く」を得ていずに、それは本当に「ボヘミアン生活」でした、ある意味では少し金メッキされ、贅沢な、あなたが望むならば、しかし、それはいまだボヘミアン人生だったのです。しかし、人(on)はしばしば、十分なお金がありませんでしたが、それは問題ではありませんでした。彼(lui)はまた、当時のアメリカは今日よりも容易だったと言いました、仲間意識はたくさんあったし、そしてそれから、人(on)は大きな出費もありませんでした、人(on)はとても安い場所に住んでいたのです。わかりますか、私はそれについてさえ話すことはできないのです、なぜなら、それは「私は惨めで、私は犬の生活をしていた。」と言うことを、私の頭に浮かばせないからです。いや、まったくそんなことはなかった。
(Pierre Cabanne, Entretiens avec Marcel Duchamp,éd. Pierre Belfondより筆者訳、p.105)
ここでは、最初に「on」という主語で言われ始め、途中で「私(Je)」と言われた部分もあり、また誰のことか判然としない「彼(lui)」という主語も言われ、最後は「私(Je)」という主語になっていた。
さらに『デュシャンとの対話』には、このように書かれていた。
PC:あなたは、ちょうど、あなたの作品の重要な回顧展(1966年)が開かれたテート・ギャラリーのあるロンドンに行きました。その展覧会は、あなたが非難していた「道化役者のデモンストレーション(manifestations histrioniques)」と、私は思いましたが?
MD:しかし、それらはいまだそうなのです! あなた(Vous)はステージに上り、あなた(vous)の製品を披露する、そのときに、あなた(vous)は俳優になるのです。画家がアトリエの中に隠れて絵を描いているところから、展覧会までのほんの一歩です、あなた(vous)はオープニングに出席しなければならず、そして人はあなた(vous)を祝福する、それはまさに大根役者(cabotin)なのです!
(Pierre Cabanne, Entretiens avec Marcel Duchamp,éd. Pierre Belfondより筆者訳、p.173)
「道化役者」という質問がされたこの部分は、「人称のブレ」がかなり顕著である。マルセル・デュシャンは、ロンドンのテート・ギャラリーでの自分の回顧展に関して、カバンヌ氏から質問されて答えているはずなのに、自分のことではないかのように、一貫して「あなた(vous)」という二人称の主語で話されている。つまり「マルセル」のことを「あなた」と呼び、「あなた(マルセル)はステージに上り、あなた(マルセル)の製品を披露する、その時あなた(マルセル)は俳優になるのです。」と言われ、「あなた(マルセル)はオープニングには出席しなければならず、そして人はあなた(マルセル)を祝福する、それはまさに大根役者なのです!」と言われていたのだろう。その言動は、「本来のマルセル」とは別物として区別しなければならないのだろう。
自分のことを話している途中で、主語が「あなた(vous)」や「on(私たちあるいは人)」に変わったりしているので、異様な言動だが、明らかな統合失調を示していると指摘される。つまり、自分のことを話しているはずの途中部分で、サタンがマルセルに向かって「あなたは、こうだったんだ。」と言っているような表現に、一時的に変化していると考えられる。それは「私(je)」と言われることへの「マルセルの自意識」の抵抗と、サタンによる占有の不安定さを物語っていたと言えるのかも知れない。そういう言動を聞く側も、混乱させられるのではないだろうか。 聞く側も、相手が「あなた」と言い出したら、自分のことが言われていると錯覚してしまうのではないだろうか。だが、そう受け取ると話が理解できなくなってくる。やはりサタンが、「マルセル」のことを「あなた」や「人」と呼んで話すように変化していたのだろう。 それは、アイデンティティーの毀損した相手と話しているような対話になってしまうだろう。
日本語訳書(岩佐鉄男、小林康夫訳)では、そうした不自然な「人称のブレ」が書かれていなかったので、日本語訳書を読む限りでは、それはまったくわからなかった。日本語の場合は、文法上、主語がなくても、前後の文脈から理解されることもあるので、不自然に二人称に変化している部分の主語は除外されるなどして、そうした「人称のブレ」が是正された日本文になって訳出されていたのである。仏語原書と英語訳書を読んで、初めてその人称表現の異常が判明していた。『デュシャン・バイオグラフィー』でも、一部そうした「人称のブレ」は指摘される。
こうした言及をすることは、著名な故人の芸術家の名誉をいたずらに疵つける行為になりはしないかと自問もしたが、しかし、「人間マルセル・デュシャン」の言動でないものが、後世にそう誤認されているのだとしたら、それを峻別して識別することは、むしろ人権擁護につながるのではないかと、私は考えるようになった。それに反人間的言説を斥けることは、人間性を守ることであり、広義の人権擁護であると考えられる。
『デュシャンとの対話』には、このように書かれていた。
PC:あなたは、もう絵筆や鉛筆には触れなくなったのですか?
MD:ええ。これは私には興味がありません。これは失われた魅力であり、失われた興味なのです。私は絵画は死ぬと考えている、わかりますか。
絵画は40年か50年後に死にます、なぜなら、その新鮮さが消えるからです。彫刻もまた死にます。これは、私のちょっとしたダダ(十八番)で、誰も賛同しませんが、しかし私は気にしません。私は、絵がそれを描いた人と同じように、数年後に死ぬものだと思います、それから、それはアート・ヒストリーと呼ばれるのです。すべてのもののように黒くなった今日のモネと、それがなされたときの70年か、80年前に鮮やかだったときのモネとの間には大きな違いがあります。今では、それは歴史の中に入り、それはそのように受け入れられています、そして、とにかくそれは結構、なぜならそれは何も変えないからです。人間は死すべきものであり、絵もまたそうです。
(“Entretiens avec Marcel Duchamp,éd.” Pierre Cabanne, p124より筆者訳)
マルセル・デュシャンは、「人間は死すべきものであり、絵もまたそうです。」と言っていた。それに、モネの絵がすでに黒くなっているという事実はない。
また『デュシャン・バイオグラフィー』には、このように書かれていた。
私がセント・レジス・ホテルのキング・コール・バーで飲むために、彼に会ったときに、私が発見した最初のことの一つは、人々を気安くさせて、そして最も無意味な問題を知的に、またはいずれにしても、許容できるように見せるような彼の才能だった。必然的に、勿論私は絵画ではないことの彼の理由を尋ねた。「私は非-アーティスト(non-artist)になったのだ。」と彼は言った。「反アーティスト(anti-artist)ではなく... 反アーティストは無神論者(atheist)のようだ──彼は否定的に信じている。私は、アートを信じていない。科学は、今日重要なものだ。月へのロケットがある、そして当然あなた(you)は月に行く。あなた(you)は、家で坐ってそれを夢見る。アートは、不要になった夢なのだ。」
(”DUCHAMP A Biography”Calvin Tomkins p407より筆者訳)
「1912年のミュンヘン旅行」で「血が逆流した」マルセル・デュシャンは、「アーティスト」ではなく、「アートキラー」と化していたのだろう。
『デュシャン・バイオグラフィー』には、このような発言も書かれていた。
私の全部が疑似ですが、それが私の特性です。わたしは人生のシリアス(真剣)さに、立脚することはけっしてできなかった。しかし、シリアスがユーモアで染められているとき、それはいい色合いになる。
(”DUCHAMP A Biography”Calvin Tomkins p445より筆者訳)
サタンによって霊媒化された人間の人生は、弄ばれることになるのではないだろうか。
マルセル・デュシャンの墓碑銘には、生前に用意されていたこのような言葉が刻まれたという。
「なおも死ぬのは、いつも他人」
それはサタンにとっては、常に死んでいくのは、霊媒化された人間の方だという意味だったのだろう。
そして不思議な符号なのだが、マルセルがミュンヘンからパリへ戻った数ヶ月後の1912年11月に、フランツ・カフカは小説『変身』を執筆していた。それは、この1912年にマルセル・デュシャンに起こっていた異変を物語るかのようでもあった。
さらにトムキンス氏の著書で初めて知ったことだったが、マルセル・デュシャンがミュンヘンに来た翌年の1913年に、浮浪生活をしていたアドルフ・ヒトラーが、ウィーンからミュンヘンに来て、同じシュバビング地区に8ヶ月滞在した後に、オーストリアへ強制送還されていたのである。アドルフ・ヒトラーも、同じ目的でミュンヘンに来ていた可能性がある。浮浪生活をしていたアドルフ・ヒトラーも自分の運命を変えようとして、ミュンヘンに来ていたのではないだろうか。
アドルフ・ヒトラー著『わが闘争』には、「1912年春、わたしは最後的に決心してミュンヘンにきた。」と書かれていた。アドルフ・ヒトラーが、1912年にミュンヘンに来たというのは事実ではない。アドルフ・ヒトラーは、1913年にミュンヘンに来たのであり、1912年にミュンヘンに来たのはマルセル・デュシャンだったのである。それは、サタンが1912年にミュンヘンに来たことを意味していたのかも知れない。
ドイツでは、1912年に「ゲルマン騎士団(ゲルマン教団)」という反ユダヤ主義的なオカルト的秘密結社が結成され、鉤十字をシンボルマークにしていた。そして、1913年にアドルフ・ヒトラーは、ウィーンからミュンヘンに来て、8ヶ月滞在した後に、1914年1月にオーストリアへ強制送還されていた。しかし、第一次世界大戦が勃発すると、1914年8月にアドルフ・ヒトラーはバイエルン王宛に請願書を送り、バイエルン軍の志願兵になって、再びミュンヘンに戻ってきた。その後アドルフ・ヒトラーは、戦時下で各地を転戦していた。
1918年には、当初はこの「ゲルマン騎士団」のミュンヘン支部として、オカルト的秘密結社の「トゥーレ協会」がミュンヘンで結成され、やはり鉤十字をシンボルマークにしていた。
この1918年11月にドイツ革命が起こり、ドイツは降伏し、第一次世界大戦は終結していた。その時、バイエルン軍の義勇兵になっていたアドルフ・ヒトラーはマスタードガスで失明しかけて、野戦病院に収容されていた。いったんアドルフは失明から回復しかけたが、再び悪化し、主治医はそれをヒステリー症状と診断していた。しかし、ドイツ敗戦を知った時に、アドルフ・ヒトラーは超自然的体験をして、叱咤する声を聞き、政治家になることが決心され、失明から回復したとされる。アドルフ・ヒトラーの場合は、おそらくその時にサタンとの契約が成立していたと考えられる。ドイツ敗戦の雪辱を晴らすために、政治的権力者となることで合意されていたのではないだろうか。サタンは、ルサンチマン(負の感情)に取り憑いて復讐心を増幅させるのだろう。だとすると、最初にミュンヘンに来た1913年の五年後のことで、それまでの五年間は葛藤状態が続いていたのかも知れない。
「トゥーレ協会」が、ナチ党の前身となったドイツ労働者党を用意したと言われる。そのドイツ労働者党に、ヒトラーが入党し、その後ヒトラーの政党になっていき、ナチ党になった。その後、ナチスが鉤十字をシンボルマークにし、ミュンヘンはナチス発祥の地となったことで知られている。「ミュンヘン一揆」のクーデター未遂事件も、ミュンヘンで起こっていた。
そのナチスは、第二次大戦時にユダヤ人600万人を殺戮し、ソ連兵捕虜300万から350万人を虐待死させたと言われる。ソ連兵捕虜の多くは去勢されて、強制労働が強いられ、衰弱して役に立たなくなると射殺されたという。それがナチスの所業だった。
そのヒトラーは、ユダヤ人を根絶して、それによって100年後か200年後にはキリスト教を自然死させると大言壮語していたのである。キリスト教はイエス・キリストの顕現によって、ユダヤ教が語り継いできた「神との契約」が更新されたと考えて、ユダヤ教から分派して始まり、ユダヤ教の啓典を旧約聖書、イエス・キリスト顕現後の福音書(ゴスペル)などを新約聖書とみなすようになった。また「ナザレのイエス」が、ユダヤ人(ヘブライ人)であったことは言うまでもない。そのキリスト教圏となったヨーロッパで、ユダヤ人、つまりユダヤ教徒が暴力によって皆殺しにされたら、キリスト教もその基盤を失い、やがては廃れていくことになったのかも知れない。ヒトラーは、その目的のためにまずユダヤ人を絶滅させようとしたのである。それは、アドルフ・ヒトラーの寿命の範疇のことではないし、人間のレベルを超えた悪意と言わざるを得ないだろう。この世界を、サタンが支配する世界につくり変えるためである。ナチスとは、軍隊を持ったサタニズムだったのである。サタンが召喚され、この世界が侵犯されたことによって、第二次世界大戦は引き起こされていたのではないだろうか。
およそ人智で図りがたい問題を認識するためには、人智を超えた啓示に教示を求めるしかないように、私には思われた。私にとってそれは、「新約聖書」や「クルアーン(コーラン)」になった。それまでは、「新約聖書」や「クルアーン」をちゃんと読んだこともなかったのだが、改めてそれらを読んで多くの事を知ることになった。
「新約聖書」の「マタイによる福音書」には、「偽預言者」について、このように書かれていた。
偽預言者(マルコ13:33-35、ルカ6:43-44)
偽預言者たちに用心せよ。彼らは羊の衣(ころも)を着てあなたたちのところへ来るが、内側は強奪する狼である。あなたたちは、彼らの[さまざまな]実(み)から彼らを見分けるであろう。人は茨(いばら)から葡萄の房を、あざみからいちじくを集めるであろうか。このように、善い木はすべて良い実を結び、腐った木は悪い実を結ぶ。善い木は悪い実を結ぶことができないし、腐った木は良い実を結ぶことができない。良い実を結ばぬ木はすべて切り倒され、火の中に投げ込まれる。それゆえ、あなたたちは、彼らの[さまざまな]実から彼らを見分けるであろう。
(新約聖書Ⅰマルコによる福音書 マタイによる福音書 新約聖書翻訳委員会訳/岩波書店 p119)
「マタイによる福音書」では、「偽預言者」と呼ばれて警告されていた。
また「新約聖書」の「ヨハネによる福音書」には、このように書かれていた。
霊を見分ける(4:1)
4
愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、それらの霊が神から出たものであるかどうかを吟味しなさい。というのは多くの偽預言者が世に現れてきているからである。あなたがたは神からの霊をこうして知る。すべてイエス・キリストが肉体において到来したことを告白する霊はすべて神から出たものである。イエスをないがしろにする霊はすべて神から出たものではない。これは反キリスト[の霊]である。それが現れることはあなたがたも聞いていたことであるが、いまやすでにそれは世にいるのである。
(新約聖書Ⅲヨハネ文書 新約聖書翻訳委員会訳/岩波書店 p126)
「ヨハネによる福音書」でも、「偽預言者」と言われていたが、その「神から出た霊」とは、創造主から生じた正規の霊であり、「反キリストの霊」、つまり「反-救世主の霊」とは、自然の摂理に反してサタンから出た霊と解釈されるのかも知れない。
「クルアーン」の「詩人の章」には、このように書かれていた。
(26:221) サタンがだれに降りたかを、おまえたちにつげようか。
(26:222) サタンは、すべての罪ぶかい嘘つきのもとへ降りる。
(世界の名著15コーラン 責任編集:藤本勝次/中央公論社 p353)
また「クルアーン」の「夜の旅の章」には、このように書かれていた。
(17:53)また、わしの僕(しもべ)たちに言え、もっと上品なことばで話すようにと。サタンは人々のあいだに不和の種を蒔く。まことにサタンは人間にとって公然の敵である。
(世界の名著15コーラン 責任編集:藤本勝次/中央公論社 p277)
「クルアーン」でも明確に「サタン」による禍いが警告されていた。キリスト教では、サタンを「神の敵対者」と呼んだが、イスラム教ではサタンを「人間の敵対者」と位置づけたとも言われる。こうした「クルアーン」の内容から、そう指摘されたのかも知れない。
『新約聖書』では、「毒麦の喩え」や偽預言者と言われて警告されていたこと、また『クルアーン』でもサタンに対して警告されていたことは、宗教的な迷信ではなく、きわめて現実的な脅威だったのではないだろうか。もはや、それは科学的に再認識されるべきなのかも知れない。
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