SATOSHI FURUI・OFFICIAL BLOG: Opened Apocalypse
古井智 美術家 芸術学博士
Satoshi FURUI Artist PhD
ICONOPLANT (office)
(E-mail:satoshifurui7@gmail.com)
2.「第二論文:解題『ツァラトゥストラかく語りき』」[論旨概要] 私は、マルセル・デュシャンに始まり、レーモン・ルーセルやアドルフ・ヒトラーに関して言及した最初の論文の後に、もう一つ長年の懸案だったフリードリヒ・ニーチェの代表作と言われる『ツァラトゥストラかく語りき』の分析を行なった。19世紀末に書かれた異様な著書とも言えるこの『ツァラトゥストラかく語りき』は、20代の頃に読んでずっと判断停止のままだったが、この著書にも同様の問題が指摘されると直観したのである。 『ツァラツゥストラかく語りき』第二部の「同情者たち」の章では、このように書かれていた。 ある時、悪魔が私に語りかけた。「神にもまた自らの地獄がある。それは人間への愛だ。」 ついこの間も、私は彼がこの言葉を言うのを聞いた。「神は死んだ。人間への憐れみによって神は死んだ。」 (Also sprach Zarathustra, Friedrich Nietscheより筆者訳) つまり、フリードリヒ・ニーチェは、自身の思想として「神は死んだ」と言及したのではなく、自分に取り憑いていた悪魔が、「神は死んだ。人間への同情のために神は死んだ。」と言うのを何度も聞いたと書いていたのである。 端的に言えば、「神は死んだ」と書かれたこの『ツァラトゥストラかく語りき』は、「サタンかく語りき」と言うべきものである。しかし、この『ツァラトゥストラかく語りき』では、「フリードリヒの意識」と「サタンの意志」との相反する二つの意識があり、その葛藤状態が書かれているので、いささか紛らわしい。この第二部「同情者たち」の章での「神は死んだ」というくだりでは、二者の意識は明確になっていた。フリードリヒが、「悪魔がこう言うのを聞いた。」と書いていたからである。かりにその部分の発言主体を、「フリードリヒ:」、「その存在:」として表記し直してみると以下のようになる。 フリードリヒ:悪魔がかつてわたしにこう言った。 その存在:神もまた、その堕ちる地獄を持っている。それは人間への愛だ。 フリードリヒ:ついこのあいだも、わたしは悪魔がこう言うのを聞いた。 その存在:神は死んだ。人間への同情のために、神は死んだ。── この部分では、フリードリヒが記述の主体になり、「悪魔がこう言うのを聞いた。」と書いて、サタンの言動を二次的に引用して書いていたので、二者の意識が明確になっている。しかし、他の部分では、サタンの言動が二次的な引用にされずに、入り乱れて不分明に混在していると考えられる。この「人間への同情のために神は死んだ。」と言われた部分だけが、フリードリヒも強く抵抗したのか、サタン(悪魔)の言動として外化して記述し得ていたと言えるのかも知れない。しかし、他の部分でもその二者の意識を識別し、分離して解釈することは可能である。 例えば、第二部「鏡を持った幼な子」の章には、このように書かれていた。 ある朝、かれはあかつきに先だって目をさまし、しばらくその寝床の上で思いにふけっていたが、ついに自分の心にむかってこう言った。 「わたしが夢のなかで、こんなにひどくおどろいて、眼をさましたのは、どうしたわけだろう? 鏡を持ったひとりの幼な子が、わたしのところにやってきたようだったが? 『おお、ツァラトゥストラよ』──『鏡のなかの自分を見てごらん!』 鏡をのぞいたとき、わたしは叫び声をあげ、心ははげしくふるえた。なぜなら、わたしがそこに見たのは自分の肖像ではなくて、悪魔の奇怪な顔と嘲笑であったからだ。 まことに、この夢のしるしと警告は、わたしにはわかりすぎるほどよくわかる。わたしの教えが危険におちいっているのだ。毒麦が、みずから小麦と称するようになったのだ。 わたしの敵は強大となり、わたしの教えの肖像をゆがめたので、わたしの最愛の者たちも、わたしから受けとった贈物を、恥ずかしいものと思うようになった。 「わたしの友だちは失われた。失われた者を尋(たず)ね出すべき時が来た!」── この言葉とともにツァラトゥストラはとび起きた。しかし、不安に脅(おび)えて喘(あえ)ぐ者のようではなく、むしろ霊感に見舞われた預言者か歌人(うたびと)のようであった。かれの鷲と蛇とはあやしんでかれのほうを眺めやった。近づいている幸福が、曙光のように、かれの顔をうえにかがやいていたからである。 わたしはどうなったのだ? わたしの動物たちよ、──と、ツァラトゥストラは言った。わたしは変わったのではないか? 大きなしあわせが疾風のようにわたしのところに来たのではないか? わたしの幸福は愚かなものだ。それは愚かなことを語るだろう。わたしの幸福はまだ若すぎるのだ、──だから、大目に見てもらいたい! (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、上巻p136) この部分の二者の「意識分離」を試みると、以下のように考えられる。 [意識分離] ○フリードリヒ(描写):ある朝、かれはあかつきに先だって目をさまし、しばらくその寝床の上で思いにふけっていたが、ついに自分の心にむかってこう言った。 ○フリードリヒ:わたしが夢のなかで、こんなにひどくおどろいて、眼をさましたのは、どうしたわけだろう? ●その存在:鏡を持ったひとりの幼な子が、わたしのところにやってきたようだったが? ○フリードリヒ:『おお、ツァラトゥストラよ』 ●その存在:──『鏡のなかの自分を見てごらん!』 ○フリードリヒ:鏡をのぞいたとき、わたしは叫び声をあげ、心ははげしくふるえた。なぜなら、わたしがそこに見たのは自分の肖像ではなくて、悪魔の奇怪な顔と嘲笑であったからだ。 ●その存在:まことに、この夢のしるしと警告は、わたしにはわかりすぎるほどよくわかる。わたしの教えが危険におちいっているのだ。 ○フリードリヒ:毒麦が、みずから小麦と称するようになったのだ。わたしの敵は強大となり、わたしの教えの肖像をゆがめたので、わたしの最愛の者たちも、わたしから受けとった贈物を、恥ずかしいものと思うようになった。わたしの友だちは失われた。 ●その存在:失われた者を尋ね出すべき時が来た!── ○フリードリヒ(状況描写):この言葉とともにツァラトゥストラはとび起きた。 ●その存在:しかし、不安に脅えて喘ぐ者のようではなく、むしろ霊感に見舞われた預言者か歌人のようであった。 ○フリードリヒ(状況描写):かれの鷲と蛇とはあやしんでかれのほうを眺めやった。 ●その存在: 近づいている幸福が、曙光のように、かれの顔のうえにかがやいていたからである。 ○フリードリヒ:わたしはどうなったのだ? ●その存在:わたしの動物たちよ、 ○フリードリヒ:──〈と、ツァラトゥストラは言った。〉わたしは変わったのではないか? ●その存在:大きなしあわせが疾風のようにわたしのところに来たのではないか? ○フリードリヒ:わたしの幸福は愚かなものだ。それは愚かなことを語るだろう。 ●その存在:わたしの幸福はまだ若すぎるのだ、──だから、大目に見てもらいたい! 状況設定の導入部分は、フリードリヒによって書かれ始めるが、途中から「サタン」が干渉して、内容を歪めていっていると解釈される。 この第二部は、第一部が出版された後に書かれたという。第一部でも、「すでに神は死んでいる。」というようなことが書かれていた。その第一部が自分の著書として出版された後に、フリードリヒは鏡に映る自分の顔が、奇怪な悪魔の顔に変わり、「わたしは変わったのではないか?」と危機感をつのらせ、また「わたしの敵(サタン)は強大となり、わたし(フリードリヒ)の教えの肖像をゆがめたので、わたしの友だちは失われた。」と書いていたのだろう。また「毒麦が、みずから小麦と称するようになったのだ。」と書き、「悪魔がフリードリヒ・ニーチェと称して、人間になりすまそうしている。」と表していたのではないだろうか。 それをサタンは「幸福の到来」であるかのように歪めようとしていたのだろう。フリードリヒにとっては、きわめて不幸な危機的状況が、サタンにとっては幸福の到来だったのではないだろうか。 こうした矛盾した内容を読む読者の側も混乱させられる。この『ツァラトゥストラかく語りき』を難解と言う人もいるのだが、それは相反する二つの意識が入り乱れた内容であるという前提を認識していないから、理解し難く思われるのではないだろうか。それが識別されれば、その内容はかなり明確である。 部分的には不正確な点もあるかも知れないが、概してこのように、この『ツァラトゥストラかく語りき』の全文は、二つの意識を分離して識別することが可能である。私は、「第二論文」でその点を詳述した。またここでは、日本語訳文をもとにして、「意識分離」を試みているが、それは基本的には独語原書や英語訳文にもあてはまると思われる。それは、言語の違いの問題ではなく、人間的感受性と意味論の問題だからである。 また第四部「退職」の章には、このように書かれていた。 ──「あなたが神に最後まで仕えた方だとすれば」と、ツァラトゥストラは考え深く、深い沈黙ののちに言った。「神がどのように死んだか、ご存知のはずだ? 同情が神の息の根をとめたという話は、ほんとうなのか? ──神は、かの人間が十字架にかけられたのを見て、それに堪(た)えきれなかった。こうして人間への愛が神の泣きどころとなり、ついにかれの死を招いたと言われているけれども?」── 老法王は、しかし、それに答えなかった。おずおずとした、苦痛にみちた暗い表情をして、目をそらした。 「去る者は去らせるがいい」と、ツァラトゥストラはしばらく考えこんだのちに、依然として老人の目をみつめながら言った。 「去らせるがいい。かれは逝(い)った。あなたがこの死者について良いことを言わないのは、りっぱなことだ。しかし、神が何者であったかは、あなたも、わたし同様よく知っている。また、かれの生涯の道が奇妙なものであったことも。」 (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、下巻p205) この部分の「意識分離」を試みるとこのように解釈される。 [意識分離] ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):──「あなたが神に最後まで仕えた方だとすれば」 ○フリードリヒ(描写):と、ツァラトゥストラは考え深く、深い沈黙ののちに言った。 ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):「神がどのように死んだか、ご存知のはずだ? ●その存在(ツァラトゥストラ): 同情が神の息の根をとめたという話は、ほんとうなのか? ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):──神は、かの人間が十字架にかけられたのを見て、それに堪えきれなかった。こうして人間への愛が神の泣きどころとなり、ついにかれの死を招いたと言われているけれども?」── ○フリードリヒ(描写):老法王は、しかし、それに答えなかった。おずおずとした、苦痛にみちた暗い表情をして、目をそらした。 ●その存在(ツァラトゥストラ):「去る者は去らせるがいい」 ○フリードリヒ(描写):と、ツァラトゥストラはしばらく考えこんだのちに、依然として老人の目をみつめながら言った。 ●その存在(ツァラトゥストラ):「去らせるがいい。かれは逝った。あなたがこの死者について良いことを言わないのは、りっぱなことだ。しかし、神が何者であったかは、あなたも、わたし同様よく知っている。また、かれの生涯の道が奇妙なものであったことも。」 ここでフリードリヒは、「人間への同情のために神は死んだ」と言われたことの根拠を問い質そうとしていたのだろう。また「ツァラトゥストラ」をはじめとした登場人物の発言主体も、頻繁に入れ替わっていると考えられる。この『ツァラトゥストラかく語りき』では、「ツァラトゥストラ」以外には個人名で言われた登場人物はいない。それらは、サタンとの対話を促すための便宜上の象徴的な配役だったのだろう。 「われわれの三つの目のもとでの内緒話だが」と、老法王は乗り気になってきて言った(三つの目と言ったのは、かれは片目だったからだ)。「神に関したこととなれば、わたしはツァラトゥストラよりも明るい、──もちろん、そのはずだ。 わたしの愛情は長の年月かれに仕えてきた。わたしの意志はかれのすべての意志のままになってきた。しかし、良い召使は万事をのみこんでいるものだ。ときには、主人が自分自身に隠していることをさえ知っているものだ。 かれは秘密に富んだ隠れた神だった。実際、ひとり息子を生ませるにも、人目(ひとめ)を忍ぶみちを通(とお)った。かれの信仰の門口(かどぐち)には、姦通がある。 かれを愛の神として讃える者は、愛そのものを十分に尊重していない者だ。この神は審判者を演じようとしたではないか? 愛する者なら、報酬や報復を超えているはずではないか? かれ、この東方から来た神が、まだ若かったときは、苛酷で、復讐心が強かった。そして自分のとりまきどもをうれしがらせるために地獄をこしらえた。 しかし、かれもついに年を取り、心弱くなり、意気地(いくじ)をなくし、同情ぶかくなった。父親らしく、というより、祖父らしくなった。むしろ、よぼよぼの祖母に似てきた。 衰弱して、暖炉のすみにすわり、脚がだめになったとこぼした。この世に倦(う)み、慾も得もなくなった。そして、ある日、同情の大きなかたまりがのどにつかえて死んだ」。── (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、下巻p205) [意識分離] ○フリードリヒ(老法王):「われわれの三つの目のもとでの内緒話だが」 ○フリードリヒ(描写):と、老法王は乗り気になってきて言った(三つの目と言ったのは、かれは片目だったからだ)。 ○フリードリヒ(老法王):「神に関したこととなれば、わたしはツァラトゥストラよりも明るい、─ ●その存在:(老法王)─もちろん、そのはずだ。 わたしの愛情は長の年月かれに仕えてきた。わたしの意志はかれのすべての意志のままになってきた。しかし、良い召使は万事をのみこんでいるものだ。ときには、主人が自分自身に隠していることをさえ知っているものだ。 かれは秘密に富んだ隠れた神だった。実際、ひとり息子を生ませるにも、人目を忍ぶみちを通った。かれの信仰の門口(かどぐち)には、姦通がある。 かれを愛の神として讃える者は、愛そのものを十分に尊重していない者だ。この神は審判者を演じようとしたではないか? 愛する者なら、報酬や報復を超えているはずではないか? かれ、この東方から来た神が、まだ若かったときは、苛酷で、復讐心が強かった。そして自分のとりまきどもをうれしがらせるために地獄をこしらえた。 しかし、かれもついに年を取り、心弱くなり、意気地(いくじ)をなくし、同情ぶかくなった。父親らしく、というより、祖父らしくなった。むしろ、よぼよぼの祖母に似てきた。 衰弱して、暖炉の隅にすわり、脚がだめになったとこぼした。この世に倦(う)み、慾も得もなくなった。そして、ある日、同情の大きなかたまりがのどにつかえて死んだ」。── 「われわれの三つの目のもとでの内緒話だが」と言われていたのも意味ありげだが、それはフリードリヒの両眼と、肉眼を持たないサタンとの間の内緒話という意味だったのかも知れない。 そして「神は死んだ」と言った根拠を追求するフリードリヒの誘導に乗って、しまいには「ある日、(神は)同情の大きなかたまりがのどにつかえて死んだ」と言われていたのである。独語原書や英語訳書を参照しても、「あまりに大きな憐れみのために喉を詰まらせた。」と書かれている。じつにばかばかしいほど拙劣な「神の死」の釈明だった。 「老いた法王よ」。と、ここでツァラトゥストラは口をはさんだ。「あなたはそれを目でみたのか? そうした始末だったかもしれぬ。そのとおりなのか、それともまた別の仕方だったのかわからぬ。というのは、神々が死ぬときには、いつもさまざまな死に方が伝えられるものだから。 だが、どうでもいい! ああだろうと、こうだろうと、──ともかくかれは居なくなったのだ! かれはわたしの目や耳の趣味にあわなかった。ということにして、それ以上ひどいことを言わないでおこう。 わたしにははっきり物を見、誠実に物を言うすべての者を愛する。しかし、かれには、──老いた法王よ、あなたにはよくわかっているはずだが、──あなたのやりくち、つまり司祭のやりくちに似たところがあった。──それはいく通りにも解釈されるのだ。 それは事実、不明瞭だった。われわれがかれをよく理解しなかったからといって、どうして腹をたてることがあるだろう? 怒(おこ)りんぼめ! どうしてもっとはっきり語らなかったのだ? また、もしそれがわれわれの耳のせいだというのなら、どうして、かれの言いぶんもよく聞きとれないそんな耳を作ってくれたのだ? われわれの耳にごみがつまっているというなら、いったいだれがごみをいれたのだ? この陶器師は、年期が不足で、できそこないばかり作ったのだ! だが、ふできだからと言って、自分の壷や製品にあたりちらしたのは、悪趣味だ。良い趣味に対する罪だ。 信仰にも、『良い趣味』はある。それはついに声を発して言った。『そんな神はいただけない! むしろ、いないほうがいい。自分の力で運命をひらいたほうがいい。気違いのほうがいい。いっそ自分で神になったほうがいい!』と」。 (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、下巻p207) [意識分離] ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):「老いた法王よ」。 ○フリードリヒ(描写):と、ここでツァラトゥストラは口をはさんだ。 ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):「あなたはそれを目でみたのか? そうした始末だったかもしれぬ。そのとおりなのか、それともまた別の仕方だったのかわからぬ。というのは、神々が死ぬときには、いつもさまざまな死に方が伝えられるものだから。 ●その存在(老法王):だが、どうでもいい! ああだろうと、こうだろうと、──ともかくかれは居なくなったのだ! かれはわたしの目や耳の趣味にあわなかった。ということにして、それ以上ひどいことを言わないでおこう。 ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):わたしははっきり物を見、誠実に物を言うすべての者を愛する。しかし、かれには、──老いた法王よ、あなたにはよくわかっているはずだが、──あなたのやりくち、つまり司祭のやりくちに似たところがあった。─ ●その存在(老法王): ─それはいく通りにも解釈されるのだ。 ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):それは事実、不明瞭だった。 ●その存在(老法王):われわれがかれをよく理解しなかったからといって、どうして腹をたてることがあるだろう? 怒りんぼめ! ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):どうしてもっとはっきり語らなかったのだ? ●その存在(老法王):また、もしそれがわれわれの耳のせいだというのなら、どうして、かれの言いぶんもよく聞きとれないそんな耳を作ってくれたのだ? ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):われわれの耳にごみがつまっているというなら、いったいだれがごみをいれたのだ? ●その存在(老法王):この陶器師は、年期が不足で、できそこないばかり作ったのだ! だが、ふできだからと言って、自分の壷や製品にあたりちらしたのは、悪趣味だ。良い趣味に対する罪だ。 ○フリードリヒ(ツァラトゥストラ):信仰にも、『良い趣味』はある。 ○フリードリヒ(描写):それはついに声を発して言った。 ●その存在(法王):『そんな神はいただけない! むしろ、いないほうがいい。自分の力で運命をひらいたほうがいい。気違いのほうがいい。いっそ自分で神になったほうがいい!』と」。 フリードリヒは、「同情が喉につかえて窒息死したという「神の死」の釈明を聞いて耳を疑い、「あなたはそれを目でみたのか?」と言ってさらに問い質した。 そして 「神の死」の根拠の信憑性が疑われると、「それ(サタン)はついに声を発して言った。」と言われ、最後には「そんな神はいただけない! むしろ、いないほうがいい。自分の力で運命をひらいたほうがいい。気違いのほうがいい。いっそ自分で神になったほうがいい!」と言い出していた。この世界を呪い、その創造主とされる神が気に入らないから、神は死んでいなくなってしまったことにした方がいいと言い、気狂いになって、むしろ自分が神に取って替わった方がいいと言われていたのである。それが、サタンの狂愚の本音だったのだろう マルセル・デュシャンが、「アートキラー」に変身させられていたのだとしたら、フリードリヒ・ニーチェは「ゴッドキラー」を演じさせられたのではないだろうか。そして、その「ゴッドキラー」を実行しようとしたのが、「ユダヤ人を根絶して、それによって100年後か200年後には、キリスト教を自然死させる」と大言壮語していたアドルフ・ヒトラーであったと言うべきかも知れない。 以下は悪意の際立つサタンの言動の抜粋部分だが、『ツァラトゥストラかく語りき』第一部、「死の説教者」の章には、このように書かれていた。 だからあなたの十戒はこんなふうになる。「あなたは殺さなければならない、──自分自身を! あなたは盗まなければならない、──自分自身をこの世からこっそりと!」── (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、上巻p73) サタンを降霊させて人間を霊媒化することは、この世界に怨念を持つ死霊の復活のために、人間の生者の実在を明け渡す人身供儀を意味するのだろう。「モーセの十戒」をもじって言われたそこでは、臆面もなくその要求が言われていた。 マルセル・デュシャンもアドルフ・ヒトラーもレーモン・ルーセルも、またフリードリヒ・ニーチェも、サタンによって霊媒化されて、その実在が奪われた人身供儀の犠牲者になったと考えられる。おそらく古代から、死霊を復活させる魔術の類は隠れて一部で行われてきたのではないかと推測される。仏教では、「成仏」と呼んで、その怨霊の回帰を抑止しようとしてきたのかも知れない。 『ツァラトゥストラかく語りき』第二部、「墓の歌」の章には、このように書かれていた。 しかし、わたしはわたしの敵たちに、こう言いたい。あなたがたがわたしにしたことにくらべれば、いかなる人間殺戮も取るにたりない! (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、上巻p189) その「墓の歌」とは、死者による歌に他ならないだろうが、それはまさにホロコーストを予告するようなサタンの怨念である。 また『ツァラトゥストラかく語りき』第二部、「教養の国」の章には、このように書かれていた。 あなたがたは墓堀り人が、そのそばで待っている半開(はんびら)きになった門だ。そして、あなたがたの現実なるものはこうだ。「一切は滅びるに価いする。」 (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、上巻p p208) それは、この世界を呪う「滅びの異端」に他ならないだろう。 また「ツァラトゥストラかく語りき」第二部、「処世の術」の章には、このように書かれていた。 もっとも、最高の賢者と称されている者も、わたしにはそんなに賢いとは思われないのに、人間の邪悪さも評判ほどではないと、わたしは見た。 (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、上巻p250) 「人間の邪悪さも評判ほどではない」と言われたそれは、「人間以外の者」の言動に他ならないだろう。どういう錯覚がされたら、この『ツァラトゥストラかく語りき』が、人間の立派な哲学であるかのように言われるのだろうか。無論、「その勢力」は、後世にフリードリヒ・ニーチェやマルセル・デュシャンを称賛させようとしてきたのだろう。それは「サタン崇拝」に繋がるからである。それを知る悪魔崇拝者にとっては、この『ツァラトゥストラかく語りき』はサタンの教書として扱われてきたのではないだろうか。 この『ツァラトゥストラかく語りき』は、サタンの意志を知るうえでは格好の研究対象になると言える。しかし、それがわからずに正常な人間個人による著書として読まれたとしたら、きわめて有害だろう。 この『ツァラトゥストラかく語りき』は、第一次大戦時にドイツ兵に配布されていたという。イギリスでもその英語訳が発刊されたのだが、その際のイギリスでのキャッチフレーズは、「悪魔と戦うために、悪魔を知ろう。」というものだったという。 フリードリヒ・ニーチェは、自己犠牲を余儀なくされながらも、この著書によってサタンの証言を後世に残そうとしたように思われる。だとしたら、その証言を理解することは、フリードリヒ・ニーチェの遺志に答えることでもあるだろう。フリードリヒ・ニーチェは、サタンの意志を存分に露呈させていたのである。 この『ツァラトゥストラかく語りき』では、サタンの偽名として使われた「ツァラトゥストラ(ゾロアスター)」以外に、登場人物の個人名が書かれていない。しかし登場人物ではないが、「ツァラトゥストラ」以外で唯一書かれた実名がある。それは「ヘブライ人イエス」だった。その他には、第四部で「ドゥドゥよ、ズライカよ」と名前が書かれている部分があるのだが、それはサタンの言動の部分であるし、また「ドゥドゥ」は、かつてマダガスカル島に生息していたが、すでに絶滅しているドードー鳥のことだと思われる。また「ズライカ」は、ゲーテが「西東詩集」の中で、自分の恋人をモデルにして書いた作中人物の名前であり、実在した人物の実名とは言えない。「ツァラトゥストラ(ゾロアスター)」以外に書かれていた唯一の実名は、 「ヘブライ人イエス」だったのである。 「サタンかく語りき」と呼ぶべきこの『ツァラトゥストラかく語りき』は、「人間フリードリヒ・ニーチェ」にとってのダイイング・メッセージだったのだろう。この『ツァラトゥストラかく語りき』を書き終えた四年後に、フリードリヒ・ニーチェが精神崩壊したことは、よく知られている。 『ツァラトゥストラかく語りき』第三部、「古い石の板と新しい石の板」には、このように書かれていた。 かれらは、こうして、もっとましな野獣に、もっと洗練された、もっと利口な、もっと人間に似た掠奪獣になるべきなのだ。なにしろ人間こそは最高の掠奪獣なのだから。 (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、下巻p118) ここでは、人民あるいは人間の労働者のことが言われていたのだが、「もっと人間に似た掠奪獣になるべきなのだ。なにしろ人間こそは最高の掠奪獣なのだから。」と意味不明とも言える狂気じみたことが言われていた。その「人間に似た掠奪獣」とは、新約聖書で「羊の衣を着た強奪する狼」と形容された偽預言者に相当するのかも知れない。 また同じく『ツァラトゥストラかく語りき』第三部、「古い石の板と新しい石の板」には、このように書かれていた。 強大な独裁者があらわれるかもしれない。それは狡猾な怪物でもあって、おのれの好悪(こうお)に物を言わせて、すべての過去に強制を加えるだろう。ついにはそれを無理やりに、おのれにいたる橋とし、予兆とし、伝令とし、鶏鳴にしてしまうだろう。 (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、下巻p103) この『ツァラトゥストラかく語りき』では、モンスターとしての強大な独裁者のヒトラーの到来が予兆されていた。 『ツァラトゥストラかく語りき』第二部、「最も静かな時」の章には、このように書かれていた。 するとふたたび声なき声がわたしに言った。「かれらの嘲笑が何でしょう! あなたは服従を忘れたのです。だからいまは命令すればいいのです! あなたは知らないのですか、どういう者がいま人類に必要なのかを? それは偉大なことを命令する者です。 偉大なことをしとげるのも困難です。しかし偉大なことを命令するのはもっと困難です。 あなたには力がある。しかもあえて支配しようとしない。これがあなたの最もゆるしがたい点です。」 (『ツァラツゥストラはこう言った』ニーチェ著、氷上英廣訳、岩波文庫、上巻p256) この部分の「意識分離」を試みると、以下のように解釈される。 ○フリードリヒ(描写):するとふたたび声なき声がわたしに言った。 ●その存在(声なき声):かれらの嘲笑が何でしょう! あなたは服従を忘れたのです。だからいまは命令すればいいのです! ○フリードリヒ(声なき声):あなたは知らないのですか、どういう者がいま人類に必要なのかを? ●その存在(声なき声):それは偉大なことを命令する者です。 ○フリードリヒ(声なき声):偉大なことをしとげるのも困難です。しかし偉大なことを命令するのはもっと困難です。 ●その存在(声なき声):あなたには力がある。しかもあえて支配しようとしない。これがあなたの最もゆるしがたい点です。」 サタンの力があれば、世界に命令する支配者になれる。しかし、フリードリヒは、それは応じようとしないことを、サタンは「これがあなたの最もゆるしがたい点です。」と非難していたのだろう。そして、その後にフリードリヒの代わりに強大な独裁者となったのが、アドルフ・ヒトラーだったのではないだろうか。 アドルフ・ヒトラーは、一時は「ドイツの救世主」のように言われていた。多くのドイツ国民もそれを信じて、一時はアドルフ・ヒトラーを称賛していた。しかし、第二次世界大戦でなされた結末は、「ドイツの救世主」とはかけ離れたものだった。 『クルアーン』の「女人の章」には、このように書かれていた。 (4:120)サタンは人々と約束して、その欲望をかきたてるけれども、サタンの約束するものはただ欺瞞にすぎない。 (世界の名著15コーラン 責任編集:藤本勝次/中央公論社 p128) フリードリヒ・ニーチェにおける最も偉大な功績は、自己犠牲を強いられながらも後世にサタンの証言を残したことだったのだろう。 3.「第三論文:エクストラ・ヒューマン=アポカリプス」[メッセージの一部抜粋](次ページ) 日本語トップページへ (c) Satoshi Furui 2024 |