古井智オフィシャルブログ

SATOSHI FURUI・OFFICIAL BLOG: Opened Apocalypse

古井智 美術家 芸術学博士

Satoshi FURUI Artist PhD

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(E-mail:satoshifurui7@gmail.com)

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4.歴史認識に関わる具体的な問題点

4-1.終戦時まで日本の内大臣だった木戸幸一の詐称問題
 終戦時まで日本の内大臣だった木戸幸一は、「木戸孝允の孫」を自称し、『木戸幸一日記』の解題でも「木戸孝允の孫にあたる」と書かれ、また戦後の多くの本では木戸幸一を「維新の三傑と言われた木戸孝允の孫」と当たり前のように書かれ、それが一般的に通説化していたのだが、それは事実ではなかった。それがわかった時には、実に驚いた。
 実子に恵まれなかったと言われる木戸孝允には、三人の養子がいた。最初の養子の孝政は、明治維新前の木戸孝允が、桂小五郎という旧名だった時の養子だったが、その桂孝政は維新前の禁門の変に出陣して戦死していた。二人目の養子は、維新後に木戸孝允の妹治子と来原良蔵との間の次男の正二郎だった。三人目の養子は、木戸孝允の妻松子の妹の子の忠太郎だった。忠太郎は、木戸孝允とは直接の血縁はなく、正二郎よりも10歳年少だった。
 木戸孝允が亡くなった際に、正二郎が家督を継ぎ、忠太郎は分家となって京都別邸などを相続していた。木戸孝允の妻の松子は、その後京都で幼い忠太郎とともに暮らしていたという。
 木戸孝允の没後に日本では華族制度が制定され、木戸孝允の功績によって正二郎に侯爵の爵位は授けられることになったのだが、正二郎は留学先のドイツから帰国する途上にスリランカ近くの船上で急死した。正二郎の遺体だけが帰国したのだが、正二郎の死後にもう一人の養子だった忠太郎ではなく、正二郎の実兄の来原彦太郎が、弟の正二郎の養子になり、また木戸孝允の隠し子を自称する16歳の好子と結婚して、木戸家の家督を継ぎ、木戸孝正と改名していた。この「木戸孝正」の名は、木戸孝允(桂小五郎)の最初の養子だった孝政と同じ読みだった。
 今日の日本の民法では、年長者が養子になる養子縁組は認められていない。兄が弟の養子になることは認められていないし、親が子の養子になることも認められていない。しかし、弟が兄の養子になることは認められている。年長や親子関係が逆転するような養子縁組を認めると、色々と矛盾が生じ、おかしなことになるから認められていないと考えられる。しかし、明治初期の当時ではまだこうした民法上の法規制はなかったので、それ自体は当時では違法とは言えないのだが、兄が弟の養子になるのは不自然なことであり、違和感が覚えられる。生前に正二郎が、実兄の彦太郎を自分の養子として認めていたかどうかも、かなり疑わしい。
 また木戸孝允の隠し子を自称して、来原彦太郎と結婚した好子も、その真偽は疑わしい。好子は母親不明とされているのだが、母親不明であるのに、どういう根拠で木戸孝允の隠し子と自称されていたのだろうか。おかしな話である。
 その好子も、彦太郎(孝正)と結婚した二年後には18歳で病死した。そして木戸孝正は、山尾庸三の長女の寿栄子と再婚し、その間の長男が木戸幸一だったのである。だから、木戸幸一は「木戸孝允の孫」ではあり得ず、木戸孝允の妹治子の孫であり、血縁上は木戸孝允の姪孫にあたり、戸籍上は木戸孝允の曾孫ということになる。つまり、父孝正(彦太郎)による木戸孝允家の家督相続が不正なものであったから、その長男の木戸幸一は、あたかも正二郎の存在がなかったかのように、父孝正が木戸孝允から家督を相続していたかのように言い、その長男の自分を「木戸孝允の孫」と詐称してきたと考えられるのである。「木戸幸一は木戸孝允の孫」も、「好子は木戸孝允の隠し子」も、一種の「オレオレ詐欺」のようなものに思われてくる。いわばその歴史的拡大版である。
 2011年に国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)では、木戸孝允の家系の写真資料などを展示する「侯爵家のアルバム」の企画展示が行われたが、その図録では木戸好子の写真が一点だけ掲載されている。しかし、その記録写真では四人の女性が写されているのだが、一人だけ顔の部分が削り取られて白くなり、まったく顔がわからない不気味な写真になっている。おそらく、それが木戸好子だったのである。もっと他に木戸好子の顔が鮮明に写っている写真があれば、博物館もそれを図録に掲載しただろうから、木戸好子の写真はそれしか見つからなかったのではないだろうか。つまり、木戸孝正(彦太郎)が、木戸孝允の隠し子を自称し、妻になっていた好子の容貌の証拠を隠滅しようとしたと考えられる。
 木戸孝允のもう一人の養子だった木戸忠太郎は、その後マニアックな達磨の蒐集家になり、京都別邸の隣に蒐集してきた数万点の達磨を所蔵する達磨堂を建て、その後その京都別邸と達磨堂は京都市に寄贈されて、現在は京都市によって管理されている。その木戸忠太郎は、達磨に関する研究書として『達磨と其諸相』なども出版していた。木戸忠太郎は、1959年に亡くなったのだが、その没後の1977年に、木戸幸一の次男の木戸孝彦(2000年没)が版権者となって木戸忠太郎の『達磨と其諸相』の復刻版を出版していた。この木戸幸一の次男の木戸孝彦は、極東軍事裁判の際に父幸一の補助弁護人も務めていた。
 しかし、驚いたことに、この木戸孝彦が版権者となって再刊された『達磨と其諸相』の復刻版の「再刊の辞」では、「店主」と書かれて個人名がないのだが、「最後に本書を刊行するにあたり、木戸孝允の孫にあたられる木戸孝彦氏の弊店に対する御厚情にお礼の言葉をのべ本書再刊の辞とする。」と書かれていたのである。木戸幸一は、「木戸孝允の孫」を詐称し続けていたのだが、そこではその次男の木戸孝彦のことまでが「木戸孝允の孫」と言われていたのである。それでは、父子二代にわたって「木戸孝允の孫」と言われていたことになる。
 木戸忠太郎も実子に恵まれず、跡継ぎがいなかったという。その後、なぜか戸籍上は木戸孝彦が、忠太郎の養子になっていたのではないかと思われる。だとしたら、確かに戸籍上では木戸孝彦は「木戸孝允の義理の孫」になっていたことになる。おそらく、木戸孝彦が忠太郎の養子になることによって、忠太郎の著書の版権者になり、また戦後に忠太郎が所有していた木戸孝允の資料を入手していたと思われる。
 その木戸孝彦は、1984年、1987年、1998年の三回に分けて、木戸孝允-木戸孝正-木戸幸一の「木戸家三代の資料」を、国立歴史民俗博物館に寄贈していた。その木戸孝允の資料は、忠太郎の没後に木戸孝彦が入手していたものだったと思われる。それは、木戸孝允の正規の家督相続者だった木戸正二郎の存在を無視した虚偽の資料であったことは言うまでもない。当初は、博物館の学芸員もその「木戸家三代の資料」を真に受けて、博物館の機関紙などで「木戸孝正を木戸孝允の子」、「木戸幸一を木戸孝允の孫」と事実と違う内容を書いていたようである。
 しかし、2011年に国立歴史民俗博物館で「侯爵家のアルバム」の企画展示が開催された際には、識者も交えた資料の精査や整理が行われていたらしく、木戸孝允-木戸正二郎-木戸孝正-木戸幸一の「木戸家四代の資料」と正常な史実に改められて展示されていた。しかし、博物館での展示は、もっぱら木戸侯爵家を美化するような趣旨の展示に終始し、「木戸幸一の詐称問題」と「木戸孝彦による偽証工作」の犯罪性は指摘されてはいなかった。木戸幸一の次男の木戸孝彦は、「木戸家三代」という虚偽を後世に信じ込ませ続けるために、国立歴史民俗博物館を騙そうとしていたのだろう。
 木戸幸一の長男の木戸孝澄は、こうしたことには関与していなかったように思われるが、極東軍事裁判の際に父幸一の補助弁護人も務めていた次男の木戸孝彦は、戦後も木戸幸一に加担し続けていたように思われる。そして、木戸幸一は、極東軍事裁判では一票差で死刑判決を免れて無期刑になり、1955年には健康上の理由から仮釈放されていた。
 「木戸孝允の孫」を詐称し、終戦時まで日本の内大臣だった木戸幸一は、ヒトラーと同じ「チョビ髭」だった。木戸幸一は、同じく「チョビ髭」だった近衛文麿とともに、日本をナチスに迎合させようとした「日本のナチス」の主謀者だったと思われる。
 2011年の国立歴史民俗博物館の「侯爵家のアルバム」の展示では、「木戸幸一は木戸孝允の義理の曾孫」として展示されていたが、『木戸幸一日記』をはじめとして多くの本では、いまだに「木戸幸一は木戸孝允の孫」と誤って書かれたままになっている。あたかも木戸孝允の養子になり、その正規の家督相続者となっていた木戸正二郎の存在が無かったかのように、自身を「木戸孝允の孫」と詐称してきた木戸幸一の欺瞞が、およそ戦後からこの21世紀の初頭まで、一般的に通説化して信じ込まれてきたという事実に驚きを禁じ得ないのである。日本の歴史認識の上でも、終戦まで内大臣だった「木戸幸一の詐称問題」と、木戸孝正(彦太郎)、木戸幸一、木戸孝彦の三代にわたる悪徳は明記されるべきだろう。
 マルセル・デュシャン(アン・アーティスト)は、ダダイストのピエール・ド・マッソに、このような手紙を書いていたという。

  「われわれはみんなあわれなるゲームをしているのです。一般性も普遍化もどれもこれもいかさま師が家ででっち上げたものです。」
                  (『マルセル・デュシャン全著作』 ミッシェル・サヌイユ編、北山研二訳、未知谷刊、p18)

  でっちあげた虚偽も、世に信じ込ませさえすれば事実にすることができる。それがサタンの言い分だったのだろう。まさにその実践を徹底して、虚偽の世界をつくり出そうとしたのが、ナチスの宣伝相のゲッベルスだった。ニューヨークタイムズは、近衛文麿を「日本のゲーリング」のように評したというが、終戦時まで内大臣だった木戸幸一は、いわば「日本のゲッベルス」だったのである。日記マニアという点も共通していた。そして戦時中の日本において「フューラー(総統)」に相当していたのは、昭和天皇ではなく、また開戦を宣言することになった首相兼陸相だった東條英機でもなく、天皇から日本軍の統帥権を奪った「総司令官なき大本営」だったのだろう。それが太平洋戦争の秘密である。日本の体制が「その権威と勢力」によって乗っ取られてしまったために、日本はナチスに迎合して英米に開戦していたのである。


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