古井智オフィシャルブログ

SATOSHI FURUI・OFFICIAL BLOG: Opened Apocalypse

古井智 美術家 芸術学博士

Satoshi FURUI Artist PhD

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(E-mail:satoshifurui7@gmail.com)

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4.歴史認識に関わる具体的な問題点

4-4.ピエール・カバンヌ著『デュシャンとの対話』の仏語原書の初版以降の改竄疑惑

  1で指摘した観点だが、ピエール・カバンヌ著『デュシャンとの対話』の仏語原書の初版を底本にした日本語訳書では、「1912年に、マルセル・デュシャンはピカビアと、ピカビア夫人のガブリエル・ビュッフェとともに、アントワーヌ座でレーモン・ルーセルの『アフリカの印象』の舞台を観劇した」と書かれていたが、参考にした仏語原書、英語訳書では「1911年に、マルセル・デュシャンは、ピカビア、ガブリエル・ビュッフェ、アポリネールとともに、アントワーヌ座で『アフリカの印象』を観劇した」と書かれていて、内容が一致しない。
 レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』は、1911年にパリのフェミナ座で初演が行われたが、翌1912年にアントワーヌ座で再演されていた。マルセル・デュシャンやピカビアらが観劇したのは、1912年のアントワーヌ座での再演のはずなのである。
 また『デュシャン・バイオグラフィー』でも、この観劇にアポリネールも同行したと言われているが、マルセル・デュシャンは他の三つのインタビューで、アポリネールとは1912年10月に初めて会ったと供述しており、辻褄が合わないと指摘されていた。
 1977年、ガブリエル・ビュッフェ=ピカビアが96歳の時に刊行されたその著書『RENCONTRES-avec PICABIA, APOLLINAIRE, CRAVAN, DUCHAMP, ARP, CALDER』(出会い-ピカビア、アポリネール、クラヴァン、デュシャン、アルプ、カルダーと)の中で、「私は1912年7月、イギリスのハイスで初めて彼(アポリネール)に会った」と書かれていた。それは、1912年5月11日から6月10日まで、パリのアントワーヌ座で上演された『アフリカの印象』の観劇にアポリネールが同行していたはずはないという反証になるだろう。
 マルセル・デュシャンは、1968年に亡くなっていたので、この本が出版されたのは、その九年後だった。またフランシス・ピカビアも、1953年に74歳で亡くなっていた。ガブリエル・ビュッフェ=ピカビアは、1985年の104歳まで存命だった。この本でのアポリネールに関する記述の最後には、「Le Point,1936」と書かれていた。
 『アフリカの印象』の観劇に行った1912年の5月か6月のおよそ1ヶ月後の7月に、ガブリエル・ビュッフェはパリの喧騒から逃れるために、夫のピカビアをパリに残し、二人の子供だけを連れて、イギリスの人里離れたハイスの町で静かに夏の休暇を過ごすために来ていた。ガブリエル・ビュッフェは、「イギリス海峡を渡れば、有利に切り離されるように思えた」と書いていた。しかし、突然予期せず夫のピカビアが、彼女が借りた別荘に車でやって来て、その時にアポリネールを連れてきた。その時が、ガブリエル・ビュッフェにとっては、ギヨーム・アポリネールとの初対面だったと書いていたのである。
 ピカビアとアポリネールが車で押しかけてきたことで、イギリスのハイスで始まったばかりだったガブリエル・ビュッフェの休暇は、必然的に終わったが、「でも、文句を言えるわけがない。」と彼女は書いていた。
 裕福な資産家の子息だったフランシス・ピカビアは、いつもスポーツカーを乗り回していたカーマニアだったことで知られている。ピカビアは、生涯で127台も車を買い替えたという逸話も残っているという。
 そのピカビアは、この時に車のスピードを上げさせようとして、フロントガラスと泥除けも外した車で、イギリスのハイスまでドライブしてきたと書かれていた。オープンカーでも、通常はフロントガラスだけはあるものである。フロントガラスが無かったら、ドライバーや同乗者には前面からの風が、もろに当たることになる。車のスピードを上げれば、なおさらである。ピカビアにとっては、キュビスムよりも未来派の主張の方が性に合っていたのかもしれないが、『アフリカの印象』の観劇後に、ピカビアにも少し奇行が目立つようになっていたのかも知れない。そのためにガブリエル・ビュッフェは、夫のピカビアをパリに残して、二人の子供だけを連れて、イギリス海峡まで渡って「有利に切り離そう」と考えて、このイギリスのハイスまで来ていたのかも知れない。イギリスのケント州の小さな町のハイス(現在でも人口は1万4000人ほど)の地名は、古英語では「避難所」や「着陸地」を意味していたという。
 フロントガラスもない車でハイスまでドライブしてきたピカビアとアポリネールについて、「彼らは飢えと渇きで死にそうだったのに、回復される前に洗うことについては何も言わなかった。」とガブリエル・ビュッフェは書いていた。そして、空腹だった彼らにガブリエル・ビュッフェは、すぐに即席の食事を出したが、彼らは買いためてあった二日分の食料をあっと言う間にたいらげて、彼らの胃袋の大きさには驚いたと書かれていた。
 美術批評家のギヨーム・アポリネールは、特定の聴衆を対象にした講演をパリで行うことになっていたが、その直前の夕方にピカビアはアポリネールに会ったと書かれていた。アポリネールは、その講演のために一言も準備できていなかったので、ピカビアが講演をすっぽかして、車で逃亡することを勧めたらしい。一言も準備できていなかったというのは、少し誇張表現のように思われるが、アポリネールも講演にあまり乗り気ではなかったので、ピカビアは直前にキャンセルさせて、ガブリエル・ビュッフェの滞在先のハイスまでのドライブ旅行に誘ったのではないだろうか。そして、二人でフロントガラスのない車に乗って、イギリスのハイスに滞在していたガブリエル・ビュッフェのところまで押しかけてきたようだった。まるでピカビアらの行動は、地に足がついていないようにも思われてくる。ガブリエル・ビュッフェは、子供たちがそういうピカビアの影響を受けないようにするために、二人の子供たちだけを連れて、イギリスのハイスまで一時的に避難していたようにも思われる。
 このガブリエル・ビュッフェが、初めてアポリネールに会った1912年7月は、ミュンヘンへ行ったマルセルが、シュバビング地区のアパートに滞在するようになった頃である。トムキンス氏の著書に書かれていたように、『アフリカの印象』を観劇した一週間後にマルセルが、ミュンヘン行きの列車に乗っていたのだとしたら、彼らが『アフリカの印象』を観劇したのは、ほとんどその最終日だったのかも知れない。6月10日の最終日に、ピカビア、マルセル、ガブリエル・ビュッフェは、『アフリカの印象』を観劇し、6月17日頃にマルセルはミュンヘンへ出発した。そして、途中スイスのバーゼルやコンスタンツに数日寄って、6月21日の夜にミュンヘン駅に到着していたのではないだろうか。
  そして、おそらく8月頃にマルセルから手紙を貰ったガブリエル・ビュッフェは、イギリスからフランスに戻り、アンドロの駅で二人だけで密会していたと思われる。この時、ガブリエル・ビュッフェは、二人の子供たちとともにエティヴァルの母の実家に滞在していたが、パリに行く用事ができたために、二人の子供たちを母に預けてパリに戻る途中の乗り換え駅のアンドロで列車を乗り継ぐ間だったら、会う時間があるとマルセルに返事した。ガブリエル・ビュッフェは、夏の休暇の間、奇行が目立つピカビアから子供たちを遠ざけようと思ってイギリスのハイスまで避難していたが、そこにもピカビアらに押しかけて来られたので、今度はフランスに帰国してから、母のいるエティヴァルに二人の子供たちとともに滞在していたのではないだろうか。そして、ミュンヘンに滞在していたマルセルから手紙を貰ったので、一時パリに戻る途中の乗り継ぎ駅で会うことになったのだろう。ガブリエル・ビュッフェは、マルセルが本当にアンドロまで来るとは思わなかったので、彼が来て驚いたと書いていた。つまり、ガブリエル・ビュッフェは、ミュンヘンに行ったマルセルと会うつもりではなかったのである。マルセルから、どうしても二人だけで会いたいという手紙を受け取ったが、そう返事をすれば、アンドロまで来るはずがないと思い、会うことを避けられると思っていたのだろう。しかし、マルセルがミュンヘンからアンドロまで来たので、ガブリエル・ビュッフェはマルセルのことを「一種の狂気で、愚行でした。」と書いていたのである。そして、ガブリエル・ビュッフェは、「『汽車の中の悲しめる青年』が、魅力的で印象的なルシファーの化身に変容する時があった。」と書いていたのである。
 このガブリエル・ビュッフェの著書には、その「アンドロでの密会」については書かれていないようだ。トムキンス氏の著書で書かれていたガブリエル・ビュッフェの回想録は、他の記述だと思われる。
 そして、9月にマルセルはミュンヘンを出発し、各地の美術館などを見学した後に、ジュラからはピカビアの車に同乗して、パリまで戻ってきたのである。
 そして、10月にピカビア、マルセル、アポリネールは、ガブリエル・ビュッフェの母の実家のあるエティヴァルにバカンス旅行に行き、マルセルにとってはその前後がアポリネールとの初対面だったのだろう。ピカビアは、ミュンヘンから戻ってきたマルセルをアポリネールに引き会わせようとしたのかも知れない。
 あるいはガブリエル・ビュッフェは、この10月まで子供達とともに、エティヴァルの母の実家に滞在し続けていたのかも知れない。ガブリエル・ビュッフェは、子供たちを連れてピカビアと別居し、離婚も考えていたのかも知れない。しかし今度も、ピカビアはまたアポリネールを連れて、さらにはミュンヘンから戻ってきたマルセルまで連れて、エティヴァルに押しかけて来ていたのかも知れない。それで結局、ガブリエル・ビュッフェはピカビアとは離婚しなかったのだろう。『アフリカの印象』の観劇後のピカビアは、レーモン・ルーセルと関わるようになっていたのかも知れない。そして、ガブリエル・ビュッフェは、ピカビア、マルセルとともに『アフリカの印象』の観劇に行ったために、とんだ厄介事に巻き込まれてしまっていたのではないだろうか。
 そして、1912年11月にフランツ・カフカは、小説『変身』を執筆していたのである。
 「1911年に、マルセル・デュシャンは、ピカビア、ガブリエル・ビュッフェ、アポリネールとともに、アントワーヌ座で『アフリカの印象』を観劇した」という事実はないだろう。この場合は、仏語原書の1967年の初版を底本にした「1912年に、マルセル、ピカビア、ガブリエル・ビュッフェが、アントワーヌ座で『アフリカの印象』を観劇した」という日本語訳書の記述が正しいと思われる。仏語原書の初版以降の版で改竄され、英語訳書もそれをもとに訳出されていると考えざるを得ないだろう。
 この1912年の『アフリカの印象』の観劇が、その後マルセルがミュンヘン行きを決心し、変貌を遂げたことのキイになる一件だったから、それを誤魔化すために、『デュシャンとの対話』の仏語原書の初版以降に改竄されていたことが疑われる。


5.この論考の情報が漏れたために10年間見舞われてきた組織犯罪のアウトライン(次ページ)

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